お風呂の思い出

(第 四 話)

お風呂の話 (4)

            都会育ちの庶民の子であった筆者の子供の頃のお風呂の思い出となると当然そのほとんどは銭湯でのこととなる。 いずれにしても個人の思い出話でしかないが、似たような境遇から読者の心の底にしまってあるお風呂での楽しい思い出を  喚起する手立てにでもなれば幸いである。

   商売をしていた両親は何かと忙しく、といって一人ではまだ銭湯にいけなかった頃、そしてまた自分の入浴料が無料だった頃、二つ年上の姉とその友達にくっついて、どういうわけかあっちこっちのお風呂屋さんにいったことがある。  きっとその友達の家の近くのお風呂やさんにでもいったのだろう。  お姉ちゃんにくっついていさえすれば別にどこへいっても怖くも疲れるという事もなかったのだろう。 それどころか女湯に入れるということがほんのちょっとだけ恥ずかしいような、でも楽しいような気分があったように記憶している。(それとも記憶が後から創り変えられたのだろうか) 二歳の差が決定的に大きかった頃の話だ。いつの頃だったろう。

   銭湯では毎年5月ころになると菖蒲湯というのがあった。 湯船に菖蒲の茎というか葉っぱというかをどさっと入れてその香りを楽しみ、またその薬効は一年を通じて風を引かないで済むと言われたものだ。 子供の我々には香りをを楽しむという境地にはなれなかったが、 その代わり大人には出来ないことが許された。 湯船に浮かんでいる菖蒲の茎を口に当てささ笛のように音を出すことが出来るのだ。 大人はバカらしくてやらないだけの話なのだが。 よそのお兄ちゃんたちがやっているのを真似て自分も湯船の中でやってみるがうまく出来なかった。 その後毎年同じ事が繰り返されるのだが、結局菖蒲の草笛を吹くことが出来るようにはならなかった。今だったら共同で入る湯船に浮かんでいる植物の葉を自分の口に入れられるだろうか。

   田舎のお風呂は巨大な木製の樽型お風呂だった。 風呂の底にある鉄の釜に薪を焚いて湯を沸かすのである。当時銭湯でない一般家庭では最も普通のタイプの湯船だったが、銭湯育ちの筆者にはとても珍しかった。  家の中全体の灯りが少し暗めだったが特に風呂場はうす暗かった。  そして山中の静寂、ザーっと流す手桶一杯ごとのお湯の音の大きいこと、 風呂の縁の高いこと、子供の自分は台に乗ってから更によじ登るようにして中に入ったものだ。釜で焚く薪の煙が目に染みることもあった。  今はもうこういうタイプのお風呂とお風呂場は田舎でも珍しいのだろうか。 プラスチックの湯船またはユニットバスに全自動ガス給湯器というところか。

   銭湯にはさん助さんという人がいた。 さらしの腹巻にふんどし一丁といういでたちの男性で、男湯女湯出入り自由の人である。最近はやりの調理人さんは“包丁いっぽんーーさらしに巻いて”と言うようだがさん助さんは2本の手だけ、何にも持たない。 手にある技術だけ、それもわざわざ技術などという言い方はしない。 お客の頭、首、肩、腕を器用に揉んでたたいて懲りをとる。湯で温まっている体にこれをやるから余計に良く効く。最後に一本右手で客の肩のあたりをポーンとたたくと本当にポーンという音が大きな銭湯中に響きわたる。  この音で男湯側にいても女湯側でお客が一人終わったなとすぐ分かる。子供のこととて結局は経験せず終いになってしまったが、昔懐かしいお風呂屋さんのひとこまだ。

   湯上りの一杯というのがこれまた旨かった。格別に旨かった。  何もビールである必要はない。 子供だったのでどちらにしろビールではなかったのだが、牛乳であれ、ジュースであれ、或いはコーヒー牛乳であれ、湯上りに、温まりすぎたような体を扇風機に当てながら飲む一本はなんとも旨かった。  日本では今銭湯愛好家がグループを作っているという。いろいろ楽しみ方を研究し情報交換しているという。昔はそんなものはなかった、必要がなかったのだろう。普通の生活の一部として銭湯を楽しんでいたのだから。 今はそれだけ銭湯というものが身近でなくなってしまったといことなのだろう。

肩まで湯に浸かるという今風のお風呂 − ほとんど全ての日本人にとっての生活習慣であるこのお風呂の歴史はまだ100年程にしかならない。 その良さを一般日本人に知らしめるのに大きな貢献をしたこの大衆浴場というもの、日本人の寿命をここまで引き上げるのに大きな役割を果したこの銭湯というものには何とか生き続けて欲しいと思う。  ローマ風呂のように歴史的建造物にはならないでほしいとせつに願う

鴇田晴幸
バスプロ(株)社長
浴槽設計家・お風呂研究家

 

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