お風呂の歴史(日本)

(第 五 話)

お風呂の話(5)

お風呂の歴史(日本)  

   風呂という言葉は室(むろ)からきたもののようである。 今では風呂といえば湯に入ることを意味するが、日本では元々蒸気浴を意味し竈室(かまどむろ)や石室(いしむろ)などの蒸し室に入るという意味だった。

    体を洗い清めることの大切さを説いた経文は既に聖徳太子の時代に日本に伝えられて おり、寺院には七堂伽藍の一つとして浴堂が備えられていた。奈良の東大寺や法華寺には今でも大湯屋や浴堂が残っている。 古代中世を通じて寺院、幕府は社会事業として無料入浴を庶民に施した。 お風呂に入ることは七病を除去し、七福が得られると説かれている。 つまり当時からお風呂に入ることは病気が治り健康に良いことと理解されていたのだ。  家々には浴室もなく町湯もなかった時代に寺院による施浴は庶民にとって有難く且つ貴重な施しであった訳だ。

  施浴によって庶民が入浴の楽しみを知ったせいだろうか、平安時代の末期には銭湯のはしりとも言える湯屋が京都に登場する。 とはいえこの頃の湯屋はまだ蒸し風呂、今で言うスチームバスで、火で焼いた石に水を掛けて発生させた蒸気で小さな部屋(室=むろ)を蒸し風呂とし体を温め汗をかいたものだった。 

   施浴の習慣は鎌倉時代に入ってますます盛んになり、“吾妻鏡”には源頼朝が行った100日間もの施浴や北条政子の供養に行われた長期間の施浴の様子が記されている。 

   また室町時代に入ると寺院の入浴でも浴場に趣向を凝らし、知友を招き、浴後に茶の湯や酒食を振舞ったりもした。 風呂が健康だけのためではなく社交と結びついたと言う意味で、その間千年の開きはあるが、ローマ風呂との共通点を見ることが出来る。 街中では銭湯も多くなり、“太平記”によると銭湯で浴客の垢を掻く垢掻き女という商売が出て来たのもこの頃のようだ。

   江戸に銭湯が初めて出来たのは“慶長見聞録”によると1591年でまだ江戸の城下町も整っていなかった頃である。それが慶長年間の終わりごろ(翌世紀初頭)には“町ごとに風呂あり”といわれるほどに広がった。 江戸時代に入ると上方でも江戸でも垢掻き女は湯女と呼ばれるようになり昼は客の垢を掻き背中を流し、夕刻からは酒色の相手をするようになり、湯女風呂は商家の旦那衆や若者達の間で大評判になる。

   一方この頃公家・武家の上流階層の間で行われていた湯殿の桶に湯を汲みとって入浴する方法が裕福な庶民の間に据え風呂として行われるようになった。 それは水(すい)風呂ともいわれ現代のお風呂のように肩までお湯に浸かる風呂として行われた。

湯女風呂は更に一層盛んになり、吉原遊郭が寂れるほどににぎわうが風紀上の理由から幕府はたびたび禁止令を出し消滅する。 しかし銭湯そのものは庶民の憩いの場として存在し、江戸末期にはやった“二階風呂”は入浴後銭湯の二階で茶を飲み、菓子をたべ、囲碁将棋を楽しみ庶民の社交場としても機能した。

当時の銭湯は入り込み湯といわれ男女混浴であった。 これにも禁止令が出されたがなかなか改まらず、明治時代にまで続く。明治政府も幕府以来の旧弊として男女入り込み湯を禁止し、守らない業者は営業停止処分にしたりしたが長年の風習は簡単には変わらず、明治23年になってようやく混浴がなくなった。またこの頃今まで蒸気が逃げるのを防ぐために使われていた“ざくろ口”という形の入り口が取り払われ、蒸気風呂が湯船風呂に替わっていった。

大正時代になるとこれら銭湯の浴槽も洗い場も板張りがタイル張りとなり、カランも取り付けられ、衛生面でも格段の進歩をとげた。  一般家庭でも肩まで湯に浸かれる木製樽型風呂が更に普及し、町方では一般庶民誰もが銭湯に行くようになりここに世界でも珍しい国民皆入浴の習慣が出来たのである。

今日では浴槽浴室の建築材料に一層の改良が加えられ、ユニットバスなるものも出現し、  住宅事情の改善とあいまって一般家庭でのお風呂設置が町中でも進み、返って銭湯の衰退を招くほどになった。 これらのお風呂普及が日本国民全般の健康促進に一層寄与したことは間違いない。何しろ昔は病気になって初めてそれを治すために“蒸し室“に入れてもらえたものが 今では病気予防の“お風呂”というものに全国民が毎日のように入っているのだから。

  鴇田晴幸
バスプロ(株)社長
浴槽設計家・お風呂研究家

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